2012年5月31日木曜日

さいご。

わたしが死んだら、と、ときどき考える。
駅のホームで電車を待つ間、
友達と歩いていてふっと沈黙が訪れる瞬間、
朝目覚めてすぐ――。

それは、けれど、全然ネガティヴな意味ではなく。
ただ、ふっと思うだけだ。

私が、死んだら――。

私は今、生まれ育った場所から遠く離れたところに住んでいる。

そしてここには、「血」という意味では私に繋がる人は誰ひとりいない。

だからたとえば私の生死を揺るがす、
何か大きな「事」が起こったときに、 私を探してくれる人はいるだろうか。

さあ、どうだろう。

それはわからないけれど。

私がこの先、誰かを愛して誰かに愛されて
人生を共にする決心をして、そうして私がその人より先に死んだなら。

してほしいことがある。

私の姿が、ほんの小さな骨かあるいは灰になった時、
その灰を、いくつかの場所に撒いてほしい。

まぁ、まるで何か、安っぽい映画のワンシーンじゃない。

そう思われてもいい。

まず、私の生まれ育った、広島。

できれば尾道の海がいい。
そして撒くのは晴れの日を選んでほしい。
青く透き通った海に、白い私のかけらがまじるのは、なんかいいだろうと思う。

そして、ベルリン。
たった一年だけれど、私はベルリンに住んでいた。
そこで多くの人と出会い、私の心は今も強くその場所を求めている。
いつか、どんな形でも「帰る」だろうと思っている。

そして最後は、生前私が一度も行かなかった場所。
エジプトかもしれないし、インドかもしれないし、名前もわからないちいさな島かも。
案外、国内だったりするかもしれない。
別に、どこでもいい。
まだ見たことのない景色が広がっているところなら。
欲を言えば、風の心地良い、海の見えるところがいい。

ものすごくわがままかもしれない。
お金もかかるし。
それでも、愛するひとにはそうやって、私のお弔いをしてほしい。
そんなことを、笑いながら話せる人に出会いたい。

どうしてそんなことをしてほしいかというと、
大好きな人と一緒に最後の旅をしたいからだ。

私の故郷を見せたいし、
私が大好きだった場所を見せたいし、
そうして愛する人と、全然知らない場所を、私も見てみたいんだ。
何倍にも軽くなった身体と魂で。

生と死は、切り離しては考えられない。

生まれたからには、死に向かって生きていかなきゃいけない。

走っていくのか歩いていくのか、その人の自由だけども。
ランナーズハイのまま、走り抜けるのもいいだろう。
ゆっくり道草しながら歩くのも、悪くない。
どちらにしてもそこへたどり着くときに、私は笑っていたいと思う。

十分に満足した、と。
十分に愛された、と。
そして十分に愛した、と。

今生きているということは、きっとものすごい奇跡の積み重ねなんだろうと思う。

大げさでもきれいでも全然ない、奇跡。

どうせなら最後の最後まで、わくわくでいっぱいにしたい。





あんのん



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