2012年12月9日日曜日

ていねいに、ていねいに。

お芝居を、見てきました。
下北沢にて。

お芝居はすきで、よく見にいく。
むろん、ひとりで。

映画や展示やお芝居やそういうのは、ひとりで。
別段、そう決めているわけではないのだけれど、
そこに漂う空気まるごと味わいたいので、
そして終わってもしばらくは、その空気の中に身を浸していたいので。
終わったあとすぐにしゃべると、何かをとりこぼしてしまうような、
なんだかちょっともったいない気がするのです。
(もちろん、人がきらいなわけじゃないんよ。)

さて、今回のお芝居。
よく行くお店の店員さんが出演されていたのです。
もちろん私は、店員としての彼しか知らないので、
なんだか不思議な心持ちでいたのですが、
いやはやとても良いお芝居でした。

序盤からずっと泣いては鼻をずびずび言わしてました。
隣の知らないお兄さん、ごめんなさい。

生きる、ということは。
なんとまぁ美しく、それでいてどろどろと生々しいの。
生きているからにはどのぐらいか先に必ずある、死。

ひとによってその長い短いは違う。

いつ死ぬかなんて、わからない。

けど。
私はたぶん、明日もちゃんと生きている。
ちゃんと目を覚まして、会社へ向かう。

その日常を、だいじにだいじに生きていたいと思う。
いつ死ぬかわからんから、とかじゃなく。
いつ死んでもいいように。
たぶんその最後に、十分に愛されて十分に愛して、十分に生きた、という満足感があれば。

日々をていねいに、濃く。

これはずっと心に留めておきたい。

そんなふうに思わせてくれる、お芝居でした。

それから、ふと。

自分も、表現の種類は違えど創り手のはしくれ。
(プロフェッショナル、アマチュアの別なく、広義に)

芸術、ということについて考える。

それはみんなに等しく、同じだけ必要なもの――

では、ない。

誰かにとっては必要不可欠じゃし、誰かにとってはまったく要らんもの。

水や食べ物とは、少し違う。
それがなくなったからと言ってただちに日々が困窮するものでは、ない。

けれど。

けれどそれぞれの持つものを、思いを、それぞれの形で、出していく、ということ。

表現する、ということ。

この欲求は多かれ少なかれ、誰しもが持っているものではないかな、と。

ならばその欲求、なんらかの形で外へ出したほうがよい、というもの。

そしてそれは、受け手がいて初めて、成立する。

言わばひととひとを、つなぐもの。

ひとが、進化してきたという事実に、私がありがたみを感じることのひとつが、
感性を持ち合わせているということ。

敏感で繊細で、時に大胆で。

決していつもきれいなわけではないその感性を、
みんな自分のやり方で磨いて磨いて、
創ったり見たり読んだり聞いたり触れたり、する。

そう、必要不可欠、ではない。

けれど、発したエネルギイがたしかに、空気を震わせる、ということ。

微かでも。

その微細な振動が、空気の流れを変えるということ。

そしてそれを受け取った誰かの日々が、
ほんのちょっとでも色づき、豊かになるということ。

その光景を見たいから、私は書き続ける。

どこでどんなふうに、誰をしあわせにできるのか、まだわからないけれど。


それでも、続けていれば。

きっと。

私の言葉で、ほんのすこしでも誰かの世界をやわらかくできたなら。


そう思いながら、私はきょうも、筆を執るのです。