お芝居を、見てきました。
下北沢にて。
お芝居はすきで、よく見にいく。
むろん、ひとりで。
映画や展示やお芝居やそういうのは、ひとりで。
別段、そう決めているわけではないのだけれど、
そこに漂う空気まるごと味わいたいので、
そして終わってもしばらくは、その空気の中に身を浸していたいので。
終わったあとすぐにしゃべると、何かをとりこぼしてしまうような、
なんだかちょっともったいない気がするのです。
(もちろん、人がきらいなわけじゃないんよ。)
さて、今回のお芝居。
よく行くお店の店員さんが出演されていたのです。
もちろん私は、店員としての彼しか知らないので、
なんだか不思議な心持ちでいたのですが、
いやはやとても良いお芝居でした。
序盤からずっと泣いては鼻をずびずび言わしてました。
隣の知らないお兄さん、ごめんなさい。
生きる、ということは。
なんとまぁ美しく、それでいてどろどろと生々しいの。
生きているからにはどのぐらいか先に必ずある、死。
ひとによってその長い短いは違う。
いつ死ぬかなんて、わからない。
けど。
私はたぶん、明日もちゃんと生きている。
ちゃんと目を覚まして、会社へ向かう。
その日常を、だいじにだいじに生きていたいと思う。
いつ死ぬかわからんから、とかじゃなく。
いつ死んでもいいように。
たぶんその最後に、十分に愛されて十分に愛して、十分に生きた、という満足感があれば。
日々をていねいに、濃く。
これはずっと心に留めておきたい。
そんなふうに思わせてくれる、お芝居でした。
それから、ふと。
自分も、表現の種類は違えど創り手のはしくれ。
(プロフェッショナル、アマチュアの別なく、広義に)
芸術、ということについて考える。
それはみんなに等しく、同じだけ必要なもの――
では、ない。
誰かにとっては必要不可欠じゃし、誰かにとってはまったく要らんもの。
水や食べ物とは、少し違う。
それがなくなったからと言ってただちに日々が困窮するものでは、ない。
けれど。
けれどそれぞれの持つものを、思いを、それぞれの形で、出していく、ということ。
表現する、ということ。
この欲求は多かれ少なかれ、誰しもが持っているものではないかな、と。
ならばその欲求、なんらかの形で外へ出したほうがよい、というもの。
そしてそれは、受け手がいて初めて、成立する。
言わばひととひとを、つなぐもの。
ひとが、進化してきたという事実に、私がありがたみを感じることのひとつが、
感性を持ち合わせているということ。
敏感で繊細で、時に大胆で。
決していつもきれいなわけではないその感性を、
みんな自分のやり方で磨いて磨いて、
創ったり見たり読んだり聞いたり触れたり、する。
そう、必要不可欠、ではない。
けれど、発したエネルギイがたしかに、空気を震わせる、ということ。
微かでも。
その微細な振動が、空気の流れを変えるということ。
そしてそれを受け取った誰かの日々が、
ほんのちょっとでも色づき、豊かになるということ。
その光景を見たいから、私は書き続ける。
どこでどんなふうに、誰をしあわせにできるのか、まだわからないけれど。
それでも、続けていれば。
きっと。
私の言葉で、ほんのすこしでも誰かの世界をやわらかくできたなら。
そう思いながら、私はきょうも、筆を執るのです。